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1909年にルイ・サラオテが、オークションで100年間所有していたシャトー・カイユーをジョセフ・バランに売却。ジョセフ・バランには、ルネとレーヌという2人の娘がおり、ルネがシャトーを所有することになりました。1943年にルネはジョゼフ・ブラヴォと結婚し、彼らは、1990年代の終わりまでシャトーを管理しました。1997年に二人の間にいた娘のマリー・ジョゼと夫のミシェル・ピエールがシャトーの経営を引き継ぎました。その後、二人の息子、ジャン・ノエルとセバスチャンのうち、2017年にセバスチャンがシャトーを引き継ぎました。
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ダイス家は、コルマール市の7km北方、ベルグハイム村に1744年から続く家系です。1945年にマルセル・ダイスが創業し、自社瓶詰めを開始しました。 息子のアンドレ・ダイスを経てやがて現当主のジャン・ミシェル・ダイスに継承。彼の下で大いなる発展を遂げ、アルザス・ドメーヌの頂点と言われるまでになりました。
「ドメーヌ・マルセル・ダイス」の現当主ジャン・ミッシェル・ダイスの長男で、2007年より同ドメーヌの醸造を担当しているマチュー・ダイスが、伯父(実母クラリス・ミシュレの兄カシアン)の畑を継承して誕生したドメーヌです。
18世紀、シャトー・モーカンは元々、ラランドの貴族の住まいでした。様々なオーナーが所有した後、1954年にテッサンディエ家の手に渡り、ワインを造り始めました。ミシュラン星付レスラン50店にオンリストされるほどの評価を獲得しています。テロワールを十分に表現したフレッシュかつデリケート、土壌由来の豊かなミネラルと爽やかな口当たりが魅力です。 マコーの港に近いこのシャトーはマルゴーにありますが、若干マルゴーのアペラシオンからはずれる地域にも畑を所有するため、アペラシオンはオー・メドックとなります。マルゴーを凌ぐコストパフォーマンスに優れたワインを産み出します。
ル・フレーヴ家は、1580年にブルゴーニュにきた際、広い畑を所有しました。その後、均等相続などで1905年にドメーヌを受け継いだのはたった2haでした。フィロキセラなどで疲弊した畑を買い集め、畑を拡大していきました。2009年からは「ルフレーヴ・アソシエ」の名前のもと、買いブドウによるワインを少量生産していますが、ブドウ栽培からルフレーヴのスタッフが携わり、栽培方法もドメーヌ同様ビオディナミがとられています。
ドメーヌ・カシャ・オキダンは、元々は大手ネゴシアンにブドウを販売するのみでしたが、1988年から元詰めを開始しました。現在は醸造、熟成、瓶詰めにいたるまですべてを一貫して家族で行っています。息子のダヴィッドは、ブルゴーニュ若手生産者の登竜門ともいえる、GJPVの第28回Trophées Jeunes Talentsにおいて、なんとコート・ド・ボーヌTOPに輝いた、将来有望な醸造家です。ダヴィッドが加わり、ますます今後が楽しみな造り手です!
フィリップ・シャルロパンは、ブルゴーニュの神様「アンリ・ジャイエ」の愛弟子であり、ブルゴーニュのトップ・ドメーヌとしてとして名声を築いています。
ル・フレーヴ家は、1580年にブルゴーニュにきた際、広い畑を所有しました。その後、均等相続などで1905年にドメーヌを受け継いだのはたった2haでした。フィロキセラなどで疲弊した畑を買い集め、畑を拡大していきました。
ドメーヌ アラン ユドロ ノエラは、1960年代にヴージョ村に創設。ヴージョをはじめ、ヴォーヌ・ロマネ、シャンボール・ミュジニー、ニュイ・サン・ジョルジュに畑を10ha程所有しています。グランクリュを含めた一部は、シャルル・ノエラの孫娘であるオディルが当主アラン・ユドロ氏との結婚の際に取得した畑で、現在、ドメーヌを代表するワインとなっています。2012年からボーヌでマイクロネゴスとしてシャルルヴァンカネットも開始しています。
ドメーヌ・シュヴロは、シュイイ レ マランジュに拠点を置く18.3haを所有するマランジュのトップ生産者の一人と呼び声の高いドメーヌです。
ドーヴィサは、16 世紀からブドウを栽培しているドメーヌですが、元詰めを始めたのは1931 年。初代のロベール・ドーヴィサがネゴシアンへのワインの販売を止め、元詰めを開始し、直売を始めました。その後、息子のルネがドメーヌを継承し、1989 年以降はルネの息子ヴァンサンが3 代目として運営をしています。 ヴァンサンは1998年に3haの区画で実験的にビディナミ農法を始め、その結果が良好なことから2002年にはすべての畑をビオディナミに転換しました。現在は、彼の二人の子供もドメーヌで働いています。
シャンベルタン・クロ・ド・ベーズ最良の生産者として知られるジャン・ラフェが約50年前にモレ・サン・ドニにドメーヌを設立。2002年よりジャンの息子であるジェラールが引き継ぎ、ドメーヌ名もジェラール・ラフェとなりました。父の代から非常に恵まれた畑を所有し、樹齢の古い古木を多く所有していますが、多くのワインはネゴシアンに販売しているためドメーヌ元詰めは極僅かとなります。2002年に代がかわってすぐの2003年にはあのロバート・パーカーから98点という稀に見る高得点を獲得し、一躍その名をとどろかせました。
ドメーヌ・ペロ・ミノは、1973年にドメーヌ・アルマン・メルムが「ペロ・ミノ」と「トプノ・メルム」のふたつに分かれて誕生しました。現当首のクリストフの父アンリの時代は、大半は桶売りされていましたが、93年にクリストフが相続してから有名になり、ワインは全量ドメーヌ元詰めになりました。父から引き継いだ畑のワインは、「ドメーヌ アンリ ペロ・ミノ」、クリストフが入手した畑のワインは、「ドメーヌ クリストフ ペロ・ミノ」でリリースしてきましたが、2005年から「ドメーヌ ペロ・ミノ」に統一されました。
20世紀初めに樽職人のアンリ・ラマルシュがシャンボール・ミュジニー出身のマリー・グリヴレと結婚して創設しました。その息子アンリがドメーヌを継承し、1933年に結婚した際にラ・グランド・リューを所有。1985年にフランソワが、父アンリの後を継いで、今のドメーヌ名になりました。ロマネ・コンティとラ・ターシュとに挟まれながら、AOC法制定時には一級畑だったラ・グランド・リューを特級畑に昇格させようと1980年頃に全面改植、92年に特級畑に昇格、91ヴィンテージから特級として出荷しています。2003年には長女のニコルが参画し、06年以降は栽培から醸造まで責任者として、フランソワの妹、ジュヌヴィエーヴが経理を担当し、ジュヌヴィエーヴの娘、ナタリーは母とともにセールスを担当しています。
ドメーヌ ジェイ クドレィ ビゾは、1981年のジャン・イヴ・ビゾらとの分割相続により誕生したドメーヌです。 現当主は2代目のジャン・ジャック氏。祖父ドゥニ・ビゾ(Denis・Bizot)氏が1920年代にオスピス・ド・ボーヌの外科医に就任したことに始まります。彼は16世紀にオスピス・ド・ボーヌの総裁の為に建設されたオスピスから100mのところにある歴史的建造物シャトー・ダヴィッド・ド・ボーフォールを手に入れました。このシャトーが現在もドメーヌ ジェイ クドレィ ビゾの本拠地となっています。
ジャック フレデリック ミュニエは、1863年に設立されました。1863年に、5代目の現当主フレデリック ミュニエの父親が、フェヴレイ社に貸していた畑を1977年に取り戻してドメーヌになりました。スイスで生まれ、石油関連のエンジニアとして世界を飛び回り、定期便のパイロットとしても活躍していました。父の代まではワイン造りに直接関与せず、これらの畑はすべて他の造り手に貸し出されていました。その契約が85年に切れるのを機に、フレデリックはワインの世界に身を投じる決意を固めたのです。ボーヌの醸造学校でワイン造りの基礎を学び、隣人のクリストフ・ルーミエやヴォルネイのミシェル・ラファルジュに指導を受けました。
数代続くビーズ家の前当主のパトリックの曽祖父のシモン ビーズがドメーヌをスタートさせ、その息子の二代目シモンが二つの大戦の間に畑を倍増させました。ブドウ栽培のみならず、醸造家としての才能にも恵まれた彼は、戦後の経済復興もままならぬ中でドメーヌ元詰めを決意。ドメーヌ シモン ビーズのワインは高く評価され、レストランのシェフやソムリエ、さらにワイン愛好家の間で広まっていきました。1972年に海軍にいたパトリックが、倒れた父についでドメーヌの仕事を始めました。パトリックは、父と同様、ワイン造りにおいて正式な教育を受けていませんが、観察と経験で畑の個性を理解するようになりました。2013年10月、パトリックは心筋梗塞による交通事故で急逝したため、日本人妻の千砂さんが引き継ぎました。ドメーヌの舵取りは千砂さんと、パトリックの妹で、ヴォーヌ・ロマネのドメーヌ・ジャン・グリヴォに嫁いだマリエルに委ねられています。
ルモワスネ社は1877年に創設されました。 前当主のローラン・ルモワスネ氏は卓越した試飲能力を買われフランス最大のワインショップ「ニコラ」のクルテイエを長年に渡り務めました。しかし、後継不在の為、2005年にアメリカの投資家、エドワード・ミルシュテイン氏へ経営は譲渡されました。 前当主のローラン氏は最後のブルジョアとも言われるほどの裕福な家系。その豊富な財力で60年代,70年代,80年代は現代のトップドメーヌから大量のワインを買い付けています。 当時は自家元詰めが一般的でなくヴォギュエらなど素晴らしい造り手のワインを買い付けていました。
第一次世界大戦後の1920年に初代のコシュが、6つの畑で分益耕作を始め、畑を少しずつ購入して自社瓶詰めを始めました。 64年に2代目に引き継がれ、89年の引退までの間に畑を拡張して10haまで拡大しました。 1964年にこのドメーヌに加わり72年に引き継いだ3代目のジャン・フランソワ・コシュ。グランシャンにあるワイン農業高校を卒業後すぐにドメーヌに入り、10年間父親の下で働いた後、当主となりました。ここ数十年の、コシュ デュリの名声は、ジャン・フランソワ・コシュの功績といっても過言ではありません。2009年ヴィンテージからは、4代目となるラファエルに代替わりしています。
第一次世界大戦後の1920年に初代のコシュが、6つの畑で分益耕作を始め、畑を少しずつ購入して自社瓶詰めを始めました。 64年に2代目に引き継がれ、89年の引退までの間に畑を拡張して10haまで拡大しました。 1964年にこのドメーヌに加わり72年に引き継いだ3代目のジャン・フランソワ・コシュ。グランシャンにあるワイン農業高校を卒業後すぐにドメーヌに入り、10年間父親の下で働いた後、当主となりました。ここ数十年の、コシュ デュリの名声は、ジャン・フランソワ・コシュの功績といっても過言ではありません。2009年ヴィンテージからは、4代目となるラファエルに代替わりしています。ルーミエのワインは村名シャンボール・ミュジニーを試しただけでも、そのシルキーなタッチに感動し、この村のエレガントさを堪能できます。
1968年にパリでビスケットの製造販売をしていた美食家でベルギー人の父が、息子ジャック セイスのために4.5haのドメーヌ グライエを購入したのがドメーヌの始まりです。 自らの名前、ジャックをもじってドメーヌ・デュジャックと名付けました。 その前2年は、ヴォルネイのプスドールのジェラール ポテルの下で修業。アルマン ルソーやクレール ダユ、アンリ グージュ、DRCのオベール ド ヴィレーヌらと親交しました。68年は難しい年でバルクで売却し、69年がドメーヌ初のリリースとなりました。 98年からは長男ジェレミーが仕事に加わり、その妻で醸造家であるダイアナと弟のアレックの3人で運営しています。ジェレミーとアレックがそれぞれ醸造と販売を担当し、ドメーヌを実質的に引き継いでいます。ジャックの妻もジェレミーの妻もアメリカ人で、ジェレミー夫人ダイアナは醸造学を修めたエノローグ。 2000から「デュジャック フィス エ ペール」というネゴシアン事業を開始しています。
20世紀の初め、ジュヴレ・シャンベルタンに一族の所有する小さな畑を寄せ集めて、アルマン・ルソーがドメーヌを設立しました。シャンベルタン、クロ・ド・ラ・ロッシュ、シャルムシャンベルタンなどフィロキセラと第一次世界大戦で疲弊した優良な畑を購入しました。世界恐慌でネゴシアンが経営的に厳しくなった1930年代から自社瓶詰めを開始。1959年に2代目のシャルルに引き継がれ、6haだった畑に、シャンベルタン・クロ・ド・ベーズ、ルショット・シャンベルタンなどを加え13haにまで拡大しました。現在、息子のエリックがドメーヌを取り仕切っています。2012年には、ディジョンのブルゴーニュ大学で栽培学を修めたエリックの娘、シリエルもドメーヌ入りし、次世代の担い手として期待されます。
2009年ヴィンテージから、ミュニュレ・ジブールとジョルジュ・ミュニュレが一つにまとまって、ジョルジュ・ミュニュレ・ジブールとなりました。それまでは、同じラベルデザインで、ドメーヌ名のみが違っていましたが、前者は現当主のマリー・クリスティーヌとマリー・アンドレの姉妹の祖父母が所有していた畑のもので分益耕作されていたもの。後者は、二人の父ジョルジュ・ミュニュレが眼科医をしながら手に入れた畑のブドウを自ら育てたものでした。 1988年にジョルジュが亡くなった後、未亡人のジャクリーヌと薬剤師をしていた娘のマリー・クリスティーヌとが後を継ぎ、もう一人の娘マリー・アンドレが醸造学を学んだ後、92年からドメーヌに加わりました。現在、マリー・クリスティーヌが栽培を、妹のマリー・アンドレが醸造を担当しています。
ベルギーから来たジャド家が1829年に、ボーヌのクロ デ ズルシュルを購入したのがワイナリーの始まりです。1859年にルイ アンリ ドゥニ ジャドがメゾン ルイ ジャドを設立し、北ヨーロッパへの販路を開拓しました。1900年には息子のジャン ルイ パプティストが引き継ぎ、コルトン シャルルマーニュなどの畑を購入しました。次代のルイ オーギュスト ジャドが、イギリスやアメリカの販路を広げました。54年に、オーギュストの代理人としてアンドレ ガジェが入社し、62年のオーギュストの死後、経営者となりました。70年には、ジャック ラディエールが補佐に加わり、84年からはガジェの息子のピエール アンリ ガジェも加わります。85年には、ジャド夫人は、経営安定化のため、アメリカの販売元でもあるコブランド社のルディ コプフにメゾン ルイ ジャドを売却。92年には、ピエール アンリ ガジェが経営者に就任しました。
1920年に祖父ピエールが創業し、1984年に息子アンドレから、ノエルとジャン クロードが引き継ぎました。ドメーヌ設立当時の1920年代から元詰を開始、その直後にアメリカ市場に紹介されたことが、世界最高の白ワイン生産者の1人として今日の名声を獲得するきっかけとなりました。初代ピエール氏は1994年に他界するまでカーヴに立ち続けた伝説の人物で、そのワイン造りの精神は2代目アンドレ氏、3代目ノエル氏にもそのまま引き継がれています。
1968年にパリでビスケットの製造販売をしていた美食家でベルギー人の父が、息子ジャック セイスのために4.5haのドメーヌ グライエを購入したのがドメーヌの始まりです。 自らの名前、ジャックをもじってドメーヌ・デュジャックと名付けました。98年からは長男ジェレミーが仕事に加わり、その妻で醸造家であるダイアナと弟のアレックの3人で運営しています。
1948年に創業した初代のフランソワ(妻はドーヴィサ家の出身)は、60年代から70年代にかけて、わずかな面積ながらも多くの特級と1級畑を手に入れました。2000年にフランソワが亡くなった後は、78年から仕事に加わった息子ジャン・マリが兄ベルナールとともに兄弟でドメーヌを運営しています。特級と1級だけだった畑には、07年から村名シャブリも加わります。フランソワ・ラヴノー表記と、ジャン・マリー・ラヴノー表記、ベルナール・ラヴノー表記のワインがありますが、ワインの造り方は同じです。
ソゼ家はフィロキセラ禍がフランス全土を襲う前、約150年前からブドウ栽培と菜園業を営んでいた旧家。約70年ほど前の1935年頃から、当時としては画期的な「元詰め」を始め、フランス各地の著名レストランを顧客に直売してきたという名実共にドメーヌの先駆者です。2代目当主のジェラール・ブド氏はディジョン大学で醸造を学んでワイン造りの道に入りました。ドメーヌを引き継いだ後に、エチエンヌ・ソゼの評価を高めました。2000年からジェラールの娘であるエミリーが、そして2002年にはエミリーの夫、ブノワ・リフォーがメゾンに参画。エティエンヌ・ソゼの次世代を担っています。
1985年から本格的にドメーヌ元詰めが始まりました。1964年生まれのジャン・ニコラは、マーケティングを学び、銀行で研修を受けた後に1989年に24歳でドメーヌを引き継ぎます。その後、アンリ・ジャイエのサポートを受けながら、名声を高めています。また、ジャン・ニコラは、「メオカミュゼ フレール エ スール」の名前でネゴシアン・ビジネスも行っています。これらの中には短期賃貸契約によりメオ・カミュゼのスタッフが畑の管理から収穫まで、ドメーヌの畑と同様に仕事をしているクリマも少なくありません。 また、ブドウやマストを買い付ける場合でも、夏季剪定や収穫時の選果を行い、品質の安定を図っています。 ドメーヌもののワインがその希少価値から入手困難であり、価格の壁も高いことから、比較的手頃な値段でメオ・カミュゼの哲学が楽しめるネゴスものの存在は、ワイン愛好家はもちろん、レストランにとってもありがたい存在といえます。
1450年、ジャン・モワソンがこの地区最初の教会として建てた建物がドメーヌの基礎で、変わらず一族が所有しています。先代のジョルジュ・ド・ヴォギュエ伯爵は1925年以来、半世紀にわたり名声を維持し87年に亡くなりましたが、ワインは1973年の醸造長の交代から1985年のフランソワ・ミレの就任までは不調といわれました。娘のエリザベート・ド・ラドウセット男爵夫人の下で復活し、販売マネージャーのジャン・リュック・ペパン、醸造責任者のフランソワ・ミレ、栽培責任者のエリック・ブルゴーニュの3人がヴォギュエの立役者とされています。2021年末、ドメーヌを支えてきた醸造責任者のフランソワ・ミエが退任し、後任としてジャン・リュパトゥリが任命されました。
ドメーヌ ギィ シモンはオート コート ド ニュイの南側にあるマレ レ フュセ村(Marey-les-Fussey)の生産者です。現在は10代目のディディエ氏と妹ミュリエル氏がドメーヌを取り仕切っています。「自分のようにオート コート ド ニュイの畑のみを所有する生産者って珍しいよね」とディディエ氏。 収穫した葡萄の半分はブルゴーニュのネゴシアンに桶売りし、残りの半分は自社詰めワインとしています。ワインは赤も白も樽熟成して瓶詰め。「コート・ド・ニュイのワインは密度がありながらもエレガント。そういった指標的なワイン造りを目指している」とディディエ氏。ドメーヌで直接販売をしている他、フランス国内を中心に販売をしています。
サントーバンはピュリニー・モンラッシェとシャサーニュ・モンラッシェの影に、文字通り隠された小さな村です。 そのサントーバンで最も偉大なドメーヌのひとつがマルク・コラン。1944年生まれのマルクは1970年、26歳の時にドメーヌを創設しました。
ベルトネはモンタニーにあるドメーヌで、本拠地モンタニーを中心に9AOC、約10haを所有しています。 現当主ジャン・ピエール・ベルトネ(58歳)はこのドメーヌの3代目で、彼がドメーヌを引き継いだ当時はぶどうを協同組合に販売していましたが、息子さんがドメーヌを継ぐことが正式に決まった2002年から元詰めを開始しました。 元々は個人客への販売のみで始まった7万本の元詰ですが、その高い品質と良心的な価格が口コミで広まり、パリや都市部のレストランのソムリエもこぞって買い付けに来るようになり、今では毎年9万本を超える本数を瓶詰めしています。
ロベール・グロフィエはモレ・サン・ドニ在所のドメーヌですが、所有畑の多くはシャンボール・ミュジニーにあります。しかもシャンボール・ミュジニーの偉大な1級畑レ・ザムルーズ最大の所有者でもあります。
第二次大戦後の1942年にアルデッシュ出身のジョセフ・アルローにより創設されました。ドメーヌはモレ・サン・ドニに位置しますが、ニュイ・サン・ジョルジュにも14世紀からのカーヴを持ち、現在ではオールド・ヴィンテージのストック用としています。 現在は2代目のエルヴェと3代目の息子のシプリアンで15へクタールの畑でブドウを栽培醸造しています。エルヴェは、70年から元詰めを始め、畑を拡張してきました。さらに、シプリアンが運営に加わった1998年以降、注目を集めるようになり、弟のロマンは2004年からドメーヌに加わりました。 2004年にギ・コカールが引退した後、その2.5haの畑の耕作を引き受け15haに拡大しました。兄弟で力を合わせ、ドメーヌを盛り上げています。シプリアン氏は、栽培・醸造・マーティングにおいても非常にバランス感覚に優れており、今後のブルゴーニュを担っていく若手筆頭株です。 12年からはネゴシアン事業をはじめ、買いブドウによるワインをA&Arlaudレーベルで販売しています。
メゾン・ルイ・ジャドは、シャサーニュ・モンラッシェ村の「ドメーヌ・デュック・ド・マジェンタ」と契約し、この由緒あるドメーヌのワインを醸造、販売する権利を持っています。 中でも、4.4ヘクタールのモノポール、シャサーニュ・モンラッシェ「クロ・ド・ラ・シャペル」が非常に有名です。
ニュイ サン ジョルジュにあるルモリケは、4代目のジルと父親のアンリによって営まれる小さなドメーヌです。ジル・ルモリケは、ボーヌで醸造を学び、ディジョン大学で醸造学で卒業をしたのち、1979年、ニュイ サン ジョルジュにある家族の領地を受け継ぎました。
ニュイ・サン・ジョルジュから2km南に位置するコート・ド・ニュイにあるドメーヌ・ド・ラルロは、ドメーヌ建物の周りの約4.0haのぶどう畑のクロ・ド・ラルロから名付けられました。“ラルロ”とはプレモー村とクロ・ド・ラルロの地下を流れる小さな川が語源です。現当主のゴドになってから、品質がめまぐるしく向上し、2000年代後半からは特に高く評価されています。
グロ一族の歴史は、1830年に、オートコートのショー村からヴォーヌ・ロマネ村に移住してきたアルフォンス・グロに始まります。 その後、ルイ・ギュスターヴ、ジュール、ルイと4代に渡ってワイン造りをおこなってきました。ルイの4人の子供たち(ジャン、フランソワ、ギュスターヴ、コレット)が独立したことから、現在4つのグロ一族のドメーヌ(ミシェル、アンヌ、グロ フレール エ スール、アンヌ・フレンソワ)があります。 ジャンは、ドメーヌ ジャングロとして活躍したのち1995年に引退し、96年にミシェルを含む3人の子供に分割相続されました。 長男のミシェル・グロは、リシュブールを妹のアンヌ・フランソワーズに譲る代わり、ジャン・グロの看板となるモノポール畑、ヴォーヌ・ロマネ1級クロ・デ・レア2.12haを継承しました。また、ジャン・グロのラベルが消滅するはるか以前から、実質的にジャン・グロのワインを造っていたのもミシェル・グロです。
1872年にサン・ロマン出身のウィリアム ポンソから普仏戦争から帰ってモレ サン ドニ村に住み、クロ デ モン リュイザンを含む数種類の畑を購入しました。1920年に従兄弟のイポリットが引き継ぎ、1934年からは全生産量の元詰めを開始しました。その息子であるジャン マリーは、長くモレ サン ドニ村のの村長を務めながら58〜80年代前半までドメーヌを運営してきました。さらに、その息子で、前当主のローランは、82年からワインを造ってきましたが、2017年にローランは家族にドメーヌを託し、息子をネゴシアン「ローラン ポンソ」を設立。現在、ローランの妹ローズ・マリーが5代目の当主を務めています。ローズ・マリーは、1997年からドメーヌ参画しています。醸造は、支配人代理も務めるアレクサンドル・アベルが醸造責任者を務め、ローラン・ポンソと同じ哲学をもち、スタイルに変化はありません。
ジュヴレ・シャンベルタンの街中を抜け、ラヴォー・サン・ジャックを見渡せる麓に、3世代にわたりワイン造りを行うセガン家はあります。現在はジェラール・シャンタル夫婦と息子のジェロームによって営まれ、ジュヴレ・シャンベルタンとシャンボール・ミュジニーに僅か5.5haの畑を所有。その畑の中には樹齢100年の一級畑「クレピヨ」や樹齢70年の一級畑「ラヴォー・サン・ジャック」があります。 現当主ジェラールは1990年よりドメーヌを引き継ぎました。ボーヌの醸造学校の教授を務めるかたわら、最新設備の機器を使い、畑は自然な状態で農薬一切無しのビオロジーです。
メゾン・フランソワ・ド・ニコライは、シャンパーニュ・モエ・エ・シャンドン社の親戚にあたる、ドメーヌ・シャンドン・ド・ブリアイユの長男、フランソワ・ド・ニコライ氏(1970年生)が、2000年初頭に設立した「極小規模ネゴシアン」です。 彼の「ワイン造りに対して最大限考えられる、最も理想的なワイン造りを行っています。
「フィリップ・パカレ」は、マルセル ラピエールの甥であり、ブルゴーニュを代表する造り手の一人として高い評価を獲得しています。 また、ニュイ・サン・ジョルジュの名門「プリューレ ロック」の醸造長を務めたことでも有名です。ブドウ樹というひとつの生命が持つ植生こそが最も重要なのであるという、「自然」や「命」に対する最大限の敬意を常に抱いてワイン造りをおこなっています。
ヤマザキワイナリーは北海道の三笠市達布地域に2002年に設立しました。当主の和幸さんは、この地で畑作を営んできた農家の3代目です。
三楽オーシャン在籍中にフランス ボルドー大学に留学。帰国した1991年に、「メルシャン 勝沼ワイナリー」に配属され、チーフワインメーカーとして醸造部門を統括してきました。メルシャンを退職してからは、「自分が好きなワイン」を造るべく、長野県塩尻市で醸造用ブドウの栽培を開始。 2019年に「ドメーヌ コーセイ」を立ち上げ、メルロに特化したワインを造っています。全面積約10ヘクタールで、うち5ヘクタールに植樹が完了し、現在は13区画。 それぞれに異なるバラを植え、各区画にはバラの品種名がつけられています。 ほとんどが穏やかな傾斜地で、非常に日当たりと風通しの良い畑です。一番古くて樹齢8年、まだすべて成園にはなっていませんが、年を経るにつれ畑の個性が少しずつ表れています。











